2016年08月01日のツイート
@prisonerofroad: RT @hashimoto_tokyo: 秀吉が徳川家康に形見分けを指示していた「遠浦帰帆」は、玉澗の《瀟湘八景》のひとつ(当時は明の水墨画という認識? 実際は南宋です)。足利将軍家ののち連歌師宗長、北条家、今川義元、豊臣秀吉、徳川家康、初代義直と伝来しています。https:/…
@prisonerofroad: RT @kazumaru_cf: 今回の吉野太夫については、今のRTの整理内容が正解です。
@prisonerofroad: RT @Gonza_Orc: 吉野太夫のくだりを整理すると、秀吉が城を抜け出して通ったり、信繁の差配で昌幸をもてなした吉野太夫は本人。28回から再登場した吉野太夫は家康(というか本多正信)が送り込んだ忍びで本物の太夫とは別人ってことやね。で、昌相は佐助使ってその裏をとった上…
@prisonerofroad: RT @Kanbe_Watanabe: 三成様もそれなりのお立場だったので実際に捕まえるのは部下の仕事だったのだが、馬鹿正直に分かる限りのキリスト教徒を捕まえてきた部下に「多すぎる!」と三成様は怒って釈放させておる。信者になってからの日が浅いとか宗派が違うとか、出来る限りの理由…
@prisonerofroad: RT @Kanbe_Watanabe: 今日の真田丸で出てきたら26人の処刑は『日本二十六聖人殉教記』としてイエズス会に記録が残っておる。当時京都奉行だった三成様は、秀吉様から京に住むキリスト教徒全員を捕縛して処刑するように命じられたが、三成様は犠牲者の数を出来る減らそうとして…
@prisonerofroad: RT @Kanbe_Watanabe: 三成様のお心を思うと大変辛くなると共に「三成様、結構、秀吉様の命に背いてるな!」と吃驚する『日本二十六聖人殉教記』は日本語訳が文庫本で発売されているので気になる方は探してみてくだされ。 #真田丸
@prisonerofroad: RT @Kanbe_Watanabe: この事をローマのイエズス会本部へ報告したのはルイス・フロイス殿じゃ。この方、話を盛ることで有名だが、キリスト教の味方には良い方に、キリスト教の敵には悪い方に話を盛るので、少なくとも三成様がキリスト教徒たちを助けようとしたことは事実であろう。
@prisonerofroad: RT @Kanbe_Watanabe: 秀吉様は「耳と鼻を削げ」と命じておられたが三成様は耳の先を少し切ることで命を果たしたことにしておる。また、秀吉様に直接弁解したいという宣教師に「今は何を言っても逆効果だから兎に角隠れていなさい」と諭し命を救っている。理想論だけではない、…
@prisonerofroad: RT @Kanbe_Watanabe: 今日の真田丸に出てきた大工の話もイエズス会の記録に残っておる。三成様が減らしに減らし、それでも全員は無理で結局24人を長崎に送って処刑することになったのだが、その道中二人の信徒が自ら加わり、長崎で処刑されたのは26人となった。それが26聖…
@prisonerofroad: RT @kazumaru_cf: 補足。信吉・信政の幼名はそれぞれ史料に基づいています。創作せずにすんで、助かりました。「太平記」の時は、尊氏は幼名なのに弟の直義が(幼名不明なので)実名で呼ばれていて、もの凄い違和感があったので。
@prisonerofroad: RT @kazumaru_cf: おまけの裏話(これくらいはいいよね)。大叔父上の最後の台詞には「薩摩守を挿入してください!!」と頼み込みました。
@prisonerofroad: RT @kazumaru_cf: ものすごい細かい話。信幸が帰国理由として「検地がはかどって居らぬようだ」といっていました。関ヶ原前の沼田の検地は天正18年と文禄2年の検地帳が残っているんですが、このうち文禄2年検地の責任者は矢沢頼綱。大叔父上最後のお仕事の話をしていた感じでし…
@prisonerofroad: RT @kazumaru_cf: というわけで、第30話、とうとう慶長3年7月まで到達しました。秀吉の死去まであと1ヶ月。・・・というところで次回に続きます。ヒキが上手いですよね、三谷さんは。
@prisonerofroad: RT @kazumaru_cf: 秀吉の形見分け。慶長3年7月に行われました。三成と片桐且元に落差があるのは、「五奉行」となるメンバーは黄金+脇指で統一されているためです。なお、実際には信繁も脇指を拝領しています。これは昌幸・信幸や大谷吉継も同様。
@prisonerofroad: RT @kazumaru_cf: あと特にテロップがでなかったと思いますが、「だいふ」と発音されているものは、「内府」=内大臣を中国風に呼んだもので、この時点での家康の官職です。よく「ないふ」と読まれますが、「だいふ」と読む方が正確です。
@prisonerofroad: RT @kazumaru_cf: この点については、福田千鶴『豊臣秀頼』(吉川弘文館)、金子拓「豊臣秀頼の諱をめぐる史料」(『古文書研究』81号)を参照のこと。URL
@prisonerofroad: RT @kazumaru_cf: ただ、これ自体は正式な元服ではなく、慶長2年9月28日が元服式です。なぜその前に藤吉郎秀頼となったかというと、摂関家の子弟は、宮中作法勉強のため任官前の「童昇殿」を許されています。その時に名簿を提出する必要があり、元服前に実名を定めたという説が…
@prisonerofroad: RT @kazumaru_cf: 秀頼元服。太田牛一『別本御代々軍記(太田牛一旧記)』に「文禄五年丙申五月十三日」「御拾様四歳之御歳後参 内、被進御官位事、左近衛権中将従四位下豊臣朝臣藤吉郎秀頼卿」等と記載。金子拓編『『信長記』と信長・秀吉の時代』(勉誠出版)を参照。https…
@prisonerofroad: RT @kazumaru_cf: なお諸大名の前でのお漏らしは、本当は朝鮮使節の前で、鶴松がやった話のアレンジになりますね。
@prisonerofroad: RT @kazumaru_cf: このあたりは、中野等『戦争の日本史16 文禄・慶長の役』(吉川弘文館 @yk_sales )をご参照ください。URL
@prisonerofroad: RT @kazumaru_cf: このあたりの事情は、日明双方の交渉担当者は理解していましたから、明使節としても、持ち出せば秀吉が激怒すると予想していたでしょう。本来の明の正使が逃亡して副使楊方享が正使に格上げとなり、将軍である沈惟敬が副使の代理をしたこと、交渉の場ではなく堺で…
@prisonerofroad: RT @kazumaru_cf: 秀吉としても、まあ文禄の役で勝利したわけではないということはある程度分かっていたようですが、諸大名には「勝利により、明が降伏してきた」という建前を取っていたため、「朝鮮における領土割譲」を求める予定でいたところ、「朝鮮からの撤兵」という真逆の要…
@prisonerofroad: RT @kazumaru_cf: 問題は堺で送別会をやった際に、明の使節団が「朝鮮からの撤兵」を追加で持ち出したことで、これに激怒したわけです。ドラマでは「ひとつの行き違いがあった」とナレーションがありましたが、日本側にせよ、明側にせよ、自国勝利による講和という形の報告があがっ…
@prisonerofroad: RT @kazumaru_cf: 明の使節ですが、やはり服飾考証の問題などから、使節との謁見は描いていません。これにはもうひとつ理由がありまして、一般に「日本国王に封じられたことに怒った」とされていますが、事実ではありません。謁見式、つまり日本国王に封じられたところでは秀吉は上…
@prisonerofroad: RT @kazumaru_cf: 信之の子である信吉と信政の誕生年。諸説ありまして、その中に、慶長元年生まれという説がふたりともあるので、今回は「同い年」という設定になっています。ただ、信吉(おこうの子)のほうが少し早い生まれです。ここ、ポイント。テストに出ます。
@prisonerofroad: RT @kazumaru_cf: 本多忠勝から稲宛ての書状。まあお分かりだと思いますが、封紙に書いてある差出人は忠勝ですが、中に入っている書状は本多正信のもの、というからくりです。
@prisonerofroad: RT @kazumaru_cf: なお、三成は秀吉による磔命令に反対で、可能な限りの手を尽くしたようです。
@prisonerofroad: RT @kazumaru_cf: しかし結局積み荷没収となります。どういう理屈か。これを、二十六聖人殉教事件と結びつけて捉える議論があるわけです。参考となる講演録があったので、リンクを貼っておきます。URL
@prisonerofroad: RT @kazumaru_cf: ただ時の政権によって規制がなされていき、秀吉は乗組員が生きていたら、積み荷没収は禁止すると定めていました。またフィリピン(つまりイスパニア)との間で、航行の安全を保障するという約条を交わしています。ドラマでもあったように、サン・フェリペ号の積み…
@prisonerofroad: RT @kazumaru_cf: サンフェリペ号事件。まず「寄船」という慣習の説明からいるかと思います。これは、漂着船がきたら、その積み荷は漂着地のものとしてよいというもの。
@prisonerofroad: RT @kazumaru_cf: 冒頭で「地震加藤」が来ました。著名な逸話なので、入れる事は決まっていたのですが、実際にはこの時彼は大坂にいましたので、史実も踏まえて、大坂から駆けつけるという形です。
@prisonerofroad: RT @kazumaru_cf: さて、豊臣「秀吉」編もあと少しです。台本もそうですが、役者の方々の演技の力には圧倒されます。台本で文字を追っているだけでは、想像もつかない映像として仕上がってきますね。
@prisonerofroad: RT @KS_1013: もうコメントするのもバカバカしくなってきたが、トランプはロシアがクリミア半島を併合し、ウクライナ東部に関与していることを知らなかったらしい。キャスターがツッコミを入れた時のうろたえ方とごまかし方がまたトランプっぽい…。 URL…
@prisonerofroad: RT @1059kanri: そういえば、真田信繁が「あの人のようになりたい」と思っていた2人、真田信尹と上杉景勝は、大坂の陣では両人とも徳川方として、信繁の「敵」になるのだなあ。実に残酷な脚本だ #真田丸
@prisonerofroad: RT @handsome_m_tw: 千代の富士死去はいいけど、ウルフと呼ばれてた時代の写真を貼る人が誰もいないので僕がやる。この身体見ろよ!相撲取りの体じゃねぇだろ!! URL
@prisonerofroad: RT @masyuuki: 源平合戦の真っ最中だってのに、源頼朝の浮気をきっかけに妻の政子とその父親の北条時政が怒って勝手に伊豆に帰っちゃうという事件がありまして。このとき北条義時は父や姉に同調せず鎌倉の邸に残るんですよ。これは北条氏のターニングポイントと言っていい1シーンでは…
@prisonerofroad: RT @nurisato: #真田丸 慶長伏見地震の後、庭の仮屋で寝たのは秀吉や天皇だけでなく、「男女ことごとく外に寝る」「諸人家を去りて夜は道路に臥す」とあるので、熊本地震の時同様、地震で家の倒壊を恐れて外に避難するのは、今も昔も、天皇も秀吉も、いまのぼくらも変わらないんだね…
@prisonerofroad: RT @minoruno: 源二郎は藤堂高虎さんとお近づきになっていれば、転職の大事さについても少しは理解できたかもしれん #真田丸
@prisonerofroad: RT @sv_g8: 西軍側の視線をとった関ヶ原・大坂の陣モノの歴史創作については、多少捏造してでも徳川を悪役ムーブさせないと話の整合性が取れなくなるということをよく理解している徳川クラスタ #真田丸 #歴史あるある
@prisonerofroad: RT @sv_g8: 徳川が黒幕扱いについては「史実とはちょっと違和感を感じるけど、まあこういう扱いにしないと関ヶ原ができないしね」とよく訓練された反応をする徳川勢についてはどう判断をすれば良いのか……よく訓練されていますね…… #真田丸
@prisonerofroad: RT @nurisato: #真田丸 慶長伏見地震のあと、秀吉たちが仮屋に避難したのは史実なんだけど、建物の倒壊を恐れてのことなんで、真田丸に出てきたような立派な仮屋だとつぶれたときに危ないから、もっと粗末な草庵みたいなのに逃げこんだはず。後陽成天皇も庭で寝たとの記録がある。
@prisonerofroad: RT @a_ri_no_ri: 貴族や寺院の日記を読み続けているせいか、たとえドラマやゲームでどのように描写されようが豊臣秀吉という名の人物やキャラにはいっさい同情を抱かなくなった。
@prisonerofroad: RT @1059kanri: この夢の対決感w #真田丸 URL
@prisonerofroad: RT @yougoha: そして三成は、昌幸(草刈正雄)に家康暗殺を依頼。出浦(寺島進)は単身、徳川屋敷に忍び込むが、そこには本多忠勝(藤岡弘、)が待ち構えていた!なんかここで急に伝奇小説みたいなノリになって笑うURL
@prisonerofroad: RT @Gonza_Orc: 秀吉の形見分けについてはまとめたサイトがあったので参考までに。ここを見ると確かに、・石田治部少輔三成 吉光脇差 金子五十枚・片桐東市正且元 金子十五枚となっている。信繁の名前はないけど、信幸が来国俊貰ってるな。URL…
@prisonerofroad: RT @a_ri_no_ri: 徳川が秀吉の状態を「知りたがる」必要は全くないのだが、それをドラマの主軸に持ってくるのか。勘弁してくれよ。家康は秀吉が上洛する度に行動を共にしているし、何度も伏見城に呼び出されているし。あんなんなってたら、探らんでも分かるわ。#真田丸
@prisonerofroad: RT @Gonta_Lineiden: 上杉の経済基盤が、直江津からの貿易と金山だったって説が本当だとすると、会津転封は大英断だよな。
@prisonerofroad: RT @1059kanri: 秀吉「誰も見たことのない日の本一の町を作りたかった」僕「江戸だ」秀吉「ゆくゆくは今日から天子様をお迎えしたかった」僕「明治維新後の江戸だ」#真田丸
@prisonerofroad: RT @a_ri_no_ri: 秀吉の没年は慶長3年。醍醐の花見は3月15日で江戸に戻っていた家康は、この当日に伏見に着。醍醐の花見以降、秀吉は具合が悪くなったとされるが、4月には家康の屋敷を訪れたり、宮中に参内して天皇に会ったりもしている。一気に悪化したのではなく良くなったり…
@prisonerofroad: RT @1059kanri: 嗚呼、秀吉の理想を叶えるのはやはり家康なのだなあ #真田丸
@prisonerofroad: RT @1059kanri: 応仁の乱は・畠山家の相続争い・斯波家の相続争い・将軍家の相続問題・幕府関東政策の対立・細川京兆家-山名家同盟の破綻このあたりの本来独立していたイシューが奇跡的に交じり合って大乱化したものなので、一つの事件として捉えようとするとわけがわか…
@prisonerofroad: "「『非正規が増えただけ』という批判は、失業状態から非正規労働者になれた人には『自分たちが職を得たのが気に入らないのか』と捉えられる危険性がある」(松尾匡・立命館大教授)" URL #politics #economic_policy …