ブルボン経済学

http://krugman.blogs.nytimes.com/2010/12/03/bourbon-economics/
Bourbonには極端に保守的な人という意味があるらしい。雑なところに修正を施した後、道草にupする予定。
See also http://b.hatena.ne.jp/himaginary/20110403#bookmark-36625994 それから http://d.hatena.ne.jp/himaginary/20101209/what_we_research_and_what_we_believe http://d.hatena.ne.jp/himaginary/20101107/Foley_on_ideology


「経済学における新知識」についての記事を読んでいると、ぼくはしばしば次のような既視感を覚える――「ここって全部、ぼくらが以前に通り過ぎた所じゃなかったっけ?」ジャスティン・フォックスが取材し、いくつかの微調整を施せば今日書かれたと言っても通用する、「新知識」についての1988年の記事を見つける。


まあこの場合、問題があるのは1988年の新知識ではなく、それが2010年でも未だに新知識として通用していることなんだけどね。具体的にいうと、市場の非合理性についてシラーは当時正しかったし、彼が正確に見抜いた二つの大きなバブルを経験した後の現在は、なおさら彼は正しいのだ。


というわけで、ぼくらが尋ねるべき問は、なぜ経済学の専門家集団が明らかなことを認めるのにそこまで抵抗するのかということになる。


ぼくは1988年を覚えている。1988年はぼくの友人だ。1988年までにはもう、均衡ビジネスサイクル理論が失敗したことは明らかになっていた。資産価格の変動はファンダメンタルズで説明されるよりも遥かに大きいことは、既にシラーが見事に実証して広めていたし、1987年の市場クラッシュはパニックの実例を提供していた。そういえば、S&Lのゴタゴタも不十分な金融規制に伴う問題の恰好の例だったね。


だが、何も起こらなかった。リアルビジネスサイクル理論は専門のジャーナルをますます締め付けながら、繁栄を続けた。行動ファイナンスは周縁部にあり続けた。均衡厨どもは何も学ばなかったし、何も忘れなかった。そして、2008年がやってきた時には、歳月による荒廃がデマンドサイドショックを実際に理解している人々を20年前に比べて遥かに珍しいものにしてしまっていた。


要するに、ぼくらの問題は気の利いた新知識が不足していることではなく、自分らの好みの理論のいくつかは役に立ってないという事実、それも数十年間にわたって明白である事実に、あまりに多くの経済学者が真正面から取り組むのを拒否していることなんだ。